式日

友人に薦められて観た映画。

庵野秀明が監督、岩井俊二が主演、Coccoが主題歌と、俺が好きな要素がいっぱいでこれは見るしかないなと。

で、見た感想としては「これはキツい…」でした。

いや、全体の淡々としていてちょっと陰のある空気感とか、廃墟ビルと風景とか、音楽のトーンは紛れもなく岩井俊二の影響があるなと思うし、黒字に白の太フォントで日付と英訳を出す演出とかナレーションが林原めぐみだったりするところはエヴァファンとしてはニヤっとするところなのだけど、紛う事なき厨二病要素をああも濃密に叩きつけられると胃もたれするというか。

毒親に育てられて心を病んでしまい現実から逃げるエキセントリックな少女と、思うような仕事ができず疲れ果てて故郷に帰ってきた映画監督の男、って設定もこれだけ見ると好きなんだけどね。

ちょっと共感するには歳をとりすぎたのかもしれない。

毎日屋上の淵スレスレに立って、まだ飛び降りられないから生きてていいと確認する「儀式」とか、まだ客観的に自分の痛々しさを認識していない純粋無垢なサブカルクソ厨二病なら自分も同じことしたいと思うかも。

自分の厨二病的な痛々しさを認識しながら卒業しきれてもいない、中途半端な大人になってしまったんだなぁ…と思ってしまうな。

 

内容というかメッセージとしてはとっても庵野でした。エヴァのときも、オタクに対して虚構に逃げるな、現実を見ろ、ってことを言っていたけれど、この映画でも「映像特にアニメーションは個人や集団の妄想の具現化」とか「虚構の構築で綴られている」なんていう主人公の独白部分があったし。この主人公の監督は虚構を作ることに疲れながらも最後まで監督としての仕事はしているし、少女も自分の虚構の世界を壊して親=現実と向き合うストーリーなので言いたいことは変わらないなと。

あと、少女の身につけてるものや持ち物が一貫して赤だったり、廃工場の広いスペースに置いてあるバスタブに横たわるシーンがあったり、ところどころエヴァファンとしてはアスカをイメージする部分が。親の愛を得たくて藻掻いているのもそうだし。あれは意識してやってるんだろうなー。

アート作品を撮ろうとして、しかもアニメは虚構だとかオタクに現実に変えれとか言いつつもエヴァを想起させる演出を入れるのは狡くない?って気もする。

 

主役の少女は原作者だそうなのだけど、エキセントリックなキャラが似合っていて表情とか動きとかが魅力的。お家案内ツアーの秘密の4階からスタートするところとか、最後の方の壊れかけてる感じとか。

映像もめっちゃ綺麗だし、ワンシーンワンシーンが写真集になりそうで。

映像と音楽に関しては手放しで好きだと言えちゃう作品でした。

冷めたスープ

今年は多分人生で一番ライブに行った年になる。

今まで2桁行った年なんてなかったし、来年以降もそんなにたくさんは行けないだろうから。

yazzmadもいなくなっちゃうしね。今度から何を目当てにライブ行こう。

Femme Fataleとかメガマソとか聖さんとかそのへんが複数被ったらかな。

基本的に対バンイベントって8割くらいが好きなバンド、気になるバンドじゃないとあまり行く気が起きない。

出る数にもよるけど、大体1バンド30分くらいでしょ?

それのバンドだけ見るために行くとすると、30分のために4000円とかかかっちゃう。

時間単位で8000円よ。それってすごくない?

TDLなら1DAYパスポートが約7000円。一日遊べちゃう金額を1時間で消費しちゃう(別にディズニー好きでも何でもないけど)。

映画も高い高いと思うけど2時間で1800円とかだしさ。

そう考えるとライブって贅沢な娯楽だよね。チェキとかグッズとか買うこと考えたらなおさら。

お金の問題じゃないのはわかってはいるけど、他の何物に代え難い体験なのもわかってはいるけど。

逆に言えばお金をそのくらいつぎ込んでも惜しくない、って思えるくらいのめりこめてないってことでもあるのでそれは悔しいかなぁ。

性格上そのくらい夢中になることは間違いなく一生ないってわかってるからこそ、そんな気持ちを味わってみたい。

 

夢中になる、ってこととは無縁に生きてきた気がする。

何やっても長続きしないし、これをやってる間は時間を忘れてしまうみたいなものもないし。前にも書いたけどライブ中も仕事のこと考えてたりするし。

 

そしてお金を注ぎ込むものがない割にお金が貯まらないのは何故…

雑記

 別に毎日更新しようと意気込んでるわけでも、義務感があるわけでもないのだけど、フワフワと頭の中に浮かんでくる、すぐに消えてしまいそうなアレコレを繋いでおくための雑記。

 

 「前髪が決まらないとやる気が出ない」っていうmixiのコミュニティに入っていた。今もネタ的に前髪死亡とかうねりんとか色々言ってるけど、昔は結構本気でその日一日のテンションが左右されてた笑

 見た目に対する拘りが薄れてきたのはいつぐらいからだろう。多分最大20キロ近く太ったのと無関係ではないと思うんだけど。社会人になりたての頃だって髪セットしないで行くの嫌だったもん。今じゃ寝癖だけ直してもっさり眼鏡でも全然平気。そういうタイプになりたくなかったけど。なったらなったで気楽だし昔は自意識過剰だったよなーなんて思ってしまうから人は変わるもの。

 自意識ってのは自分にとって大きなテーマで、「人からどう思われるだろう」「自分を良く見せたい」っていう思いが、見た目の問題に限らず常に悪い方向に表出してる。卑屈と言われるのも自意識の裏返しだからな。多分それは態度にも出ていて、知らないうちに周りにも気を使わせてしまっていると思うし壁を作る原因にもなってると思う。「コミュ障」って一言でまとめてしまってるけどその内訳は色々あると思うのよ。俺にとっての最大の原因はこの自意識関係なんじゃないかとすら思う。だからといって中々治るものでもないんだけどさ。

 

 ここ数日仕事がらみで気が滅入っている。音楽でも聴いて気を紛らわそうと思って色々流してはみるけど、そういう時は大抵何を聞いても自分の内側には入ってこないし感覚的にはまさにバックグラウンドミュージックでしかない。それもそのはずで音楽は現状を変えてくれないし。精神を刻一刻と蝕んでいく現実に何の影響も与えない。よくバンドマンが「嫌なことは全部忘れてここでは全力で楽しめ!」とか「僕たちの音楽が常に寄り添ってる」とか言うじゃん。本当に滅入ってるときってそれどころじゃないんだよね。うわの空になっちゃってるから。気持ちの切り替えが下手なだけなんだろうけど、こういう人ってライブの楽しさを100パーセント享受できないしなんか損した気分になるよね。なんか話が逸れたけど素直に音楽に癒されたり活力に変えられる人間だったらいいのになって思った。

 

捨てるということ

最近あまりにも散らかってるので重い腰を上げて片付けをしようとしたけれど、どうしても本や服が容量オーバーになってしまうので少し捨てることにした。 

服なんて特に数年で好みが変わったりサイズが合わなくなったりで着ないものが多くそれだけでダンボール2つくらいになりそう。 

しかし、基本的に物が捨てられないタイプの人間。
別にもったいない精神とか、エコがどうとかではなく思い入れの問題で。
思い入れというほど特別なイベントのときに着た服ではなくても、「これは上京したばっかりのときによくわからず下北で買ったんだったなー」とか、「これ着てた頃は~に住んでて~でよくご飯食べて・・・」とかそんなレベルのことで捨てるのを躊躇ってしまったり。
物を捨てる、っていうことが、自分の歴史をそのまま捨ててしまうようでちょっと不安。
もちろんそんなことはなく、物は物だってのは頭じゃわかっていても。
無くなって困ることも無いのに。 

自分でもなんでこんな考えになるのか不思議。
過去を思い出す方法なんて他にもあるし、さらに言えば特別思い出したいわけでもない、無くなっても構わないくらいの過去のほうが断然多いのだけど。

そんなことを考えながら新しく増えてきた服を整理しかけたままになってしまっている。
新しい服があるということは、それもまたリアルタイムの歴史の積み重ねであって近過去であるそちらを優先してやらなきゃいけないんだよなぁ。

関係ないけど物には魂が宿るなんて昔からよく言うけども、捨てたらその魂はどこに行くのか小さいころ考えてたことがあった。
そして今は部屋の物には思い出とかそういうものが宿ってる気がするのだけど、焼却されたらちゃんと成仏してくれるのかしら。
変な話だけど、思い入れが強い場所とか長く居た場所にはその時のままの自分の亡霊みたいなものが残ってる気がするんですよ。
例えば上京したての頃に住んでた街には、今も20歳前の自分が当時付き合っていた相手と幸せそうにしてるんじゃないかとか。
別の場所では思いつめて当てもなくフラフラ夜中に彷徨う自分がいるんじゃないかとか。
そしたら何年も居た大学のキャンパスなんかすごいことになってそう。

色んな物や場所に自分を結びつける傾向が強いからだめなんだろうな。
切り捨てられる人ってよっぽど合理的で強いんだろうな。
とは言え引越しの前には少しずつ捨てないといけないね、いつまでもこうしてられないから。