頭がおかしくなりそう

去年の12月半ばから仕事を休み始め、2月1日から復職した。

1日は金曜だったし、実質的には今週からが本格復帰だったんだけど、今日起きたら具合が悪くて早速休んでしまった。

睡眠薬を飲むと寝起きの具合が良くないのもあるんだけど、自分のダメさ加減に絶望したし、休んだことへの罪悪感もある。

気持ちが落ちてしまって動くことも出来ない。休んでるのだしせめて皿を洗ったり洗濯したりやることはあるのに

胸の痛みとか食後の吐き気とか体調面でもずっと良くない状態が続いているし、薬も効かないので不安になってずっと病気について調べることを辞められない。こないだ血液検査で好酸球というアレルギー関連の数値が高くて、それに関して胃腸が悪くなってるのではないかとか。

12月に胃カメラをやって異常はないと言われているので、診断基準的には否定できるはずなんだけど、医者が見落としたんじゃないかとか色々な考えが頭をよぎってしまい、気が休まらない。

仕事を休んでもこんな感じなので全然休息をとった感じがしないし、かといって仕事に行ける体調でもなかったし、どうすれば楽になれるのか。

ずっと不安ばかりで頭がおかしくなる。

誰に相談していいかもわからない。


弟の白血病について。ドナーになるということ。

弟が白血病になりました。

気持ちの整理と、記録も兼ねてちょっとブログに残しておきたいと思います。
ただ、今の正直な本音を書き連ねているため、不愉快な思いをする方もいるかもしれないことは予め記しておきます。

私と弟は二人兄弟で、私は東京在住、弟は現在東北の病院に入院しています。


まずこれまでの経緯ですが、弟が初めて白血病で入院したのは実は昨年のことです。

その際にも自分が骨髄移植のドナーになるかもしれないということで採血してHLA(白血球の血液型のようなもの)の適合検査を受けました。その時はHLAが完全に適合することが前提で、適合確率は25%ということでしたが、適合することはありませんでした。

正直な気持ちを言うと、適合せずホッとした部分もあります。

もちろん弟の命がかかっていることですから、移植したくないと言うのは冷たいと思われるでしょうが、自分の体への負担を考えたらやはり恐怖心がありました。

結局私が適合しなかったことで弟は抗がん剤治療を続けたのですが、病院曰く「なぜか」寛解したとの話があり、その時は無事退院しました。


しかしその半年後、今から1ヶ月ほど前ですが、退院後に行っていた定期検診で再発の兆しが見られたとのことで弟は再入院となりました。

最初は前回同様に抗がん剤治療を行っていましたがやはり移植が必要となり再び私にドナーとして白羽の矢が立ったとのことです。

今回はHLAが全部一致しなくてもよい、ハプロ移植という方法で行うそうで、再度私は適合検査を行うことになりました。

2度目の適合検査の前に、移植コーディネーターという方から電話があり、移植は骨髄移植でなく採血をして白血球だけを取り出す方法でやること(骨髄移植に比べドナーの負担が少ない)、そのために白血球を増やす注射をドナーには毎日打たなければならないこと、健康診断も含めて一週間くらい通院、入院をしなければいけないことなどを聞きました。

コーディネーターの方はとても親切な印象で説明も丁寧でした。ドナーの気持ちや状況を優先することもきちんと伝えてくれて、その上で進めてくれるとのことでした。

自分はとにかく適合検査を受けることは了承し、検査キットを自宅に送ってもらうよう伝えました(今回は採血でなく口内細胞を摂取し検査をするため病院まで出向く必要はありませんでした)。
現時点で結果は出ておらず、また適合確率も個別の事情で推測できないようです。
なので、これから書くことについては適合したらという前提の話です。



読む方は不快に思われるかもしれませんが、再び私がドナーになるかもしれないと聞いた時には絶望的な気持ちになりました。
やはり不安が大きく、弟の心配よりも自分のことで頭がいっぱいでした。
今も心の中では弟に助かってほしい気持ちと、適合検査で不適格になって欲しい気持ちの両方が混在しています。
弟とは仲は特別良くはありませんが悪くもありません。一般的な関係というものはわかりませんが、普段お互いに連絡を取る事もないが私が実家に帰って顔を合わせれば、少し話すこともある、という程度です。


移植に関する不安だけでなく、現実的な負担についても色々考えました。
私自身結婚しており、子どもこそいませんがやはり自分だけの問題ではありません。妻に移植するかもと伝えると特に反対はしませんでしたが。
さらに、一週間ほどの休みを今年はもう取れないという問題もありました。
休暇がもうほとんど残っておらず、それ以上休めば自分が退職するまで30年以上、毎月少しずつ給料が本来もらう分よりも少なくなる、という状態です。
お金と弟の命とどちらが大切なんだ、と良識ある方なら怒りを感じるかもしれません。
しかし、自分にとっては自分の今後も弟の命もどちらも大事なのです。何を犠牲にしてでも弟を助ける、という判断は正直できません。

当然、上司や人事の部署には弟の状況を説明し、何か使える制度や良い方法はないか一緒に考えてもらいましたが、結局解決法を見つけることはできませんでした。
そうした状況の中で、自分がドナーになることの決意ができたとはまだ言えません。

ネットで探したドナー体験談の中には親族のドナーになった話もいくつかありました。
みな最初不安はあったものの「適合して嬉しかった」「家族を救うことができたことに対する喜びがある」と前向きに語っています。目に入るのは美談ばかりです。多くの方はそうした気持ちになるのかもしれません。

ただ、私はそうはなれなかった。


兄弟のドナーに選ばれるというのは辛いことです。
どんな事情であれ、断れば兄弟はもちろん、両親や親族から恨まれることでしょう。またそれを知った周囲の人からも批判をされると思います。
ドナー向けのパンフレットや移植に関する団体のHPなどには必ず「ドナーの気持ちや状況が最優先であること」「移植のための提供は誰にも無理強いされるものではないこと」が書かれています。
しかし、そうした周囲の見えない圧力の中で、拒否できる人がどれほどいるでしょうか。

私は今の状況になるまでドナー制度についてほとんど何も知りませんでした。
骨髄バンクを通じて見知らぬ人に移植を行う場合には、ドナー休暇制度が認められている企業があります。私の勤め先にもあります。さらに、自治体によってはドナー休暇を取得した人やその勤め先に助成金が給付されるところもあります。
しかし、身内への移植についてはそうした補助が一切ありません。休暇は有給休暇を使わざるを得ず、金銭的な補償もなく、全てはドナーに選ばれた人間の善意に委ねられています。
家族なのだから、助けるのが当然ということなのでしょうね。

ここで主張しても仕方がないことですが、移植への精神的・身体的負担や社会的負担に対して補償がなく、なおかつ断れば家族との関係に亀裂が入るという状況で移植をする/しないの二択を迫られるというのは果たしてドナーの気持ちや状況を最優先すると言えるのだろうかと疑問に思ってしまいます。

念のため、これはコーディネーターさんに対する批判ではありません。あくまで現状の制度に対する話です。前にも書きましたがコーディネーターの方はよく話を聞いてくださって、病院とのパイプ役として最善の方法を考えてくださってると思います。


ちなみに、コーディネーターの方を通じて病院に対し休暇が取れないことや来年に入れば休暇が取れるのでその間放射線治療等を行い移植を待ってもらうことはできないのか聞いたところ、「それは移植をしたくないということか」と受け取られてしまったようです。病院からすれば移植は早いほうが良いし患者の容体が第一ということでしょう。その立場は理解できます。ドナーの権利は蔑ろにされているとも感じますが。
おそらく客観的にこの話を聞く人も、少なからず病院と同じように移植に同意しないことに苛立ちを覚えるだろうと思います。


患者の方がこのブログを読んだら悲しい思いをするだろうというのは想像できますが、身内のドナーは何の支援もなく、批判と不安に耐えなければいけない状況にあるということは書いておきたいと思いました。
自分の気持ちの整理だけでなく、自分と同じように身内のドナーになることに対し前向きになれないことへの罪悪感、孤独感に悩む人のためにも。


また状況が進展したら更新したいと思います。

死にたい気持ち

死にたいと思う時間はこれだけ生きてきてもどうしても無くならない。

ただ理由だけが変わる。

若い頃は、孤独、将来の不透明さなんかで死にたくなったけれど、今は身体の不安、金銭的な不安、選択を迫られる不安が大きい。

死にたい理由なんて一つ潰しても次々に湧いてくるので、これは原因が問題なんかじゃなく俺の受け止め方の問題なんだって、頭では分かってはいるけどそれで解決するならもうとっくになんとかなってるわけで。

特に体の不安は多分無くならないだろうな。調べて何ともなくても見落としがあるかもしれない。体の感覚的に何も無くても自覚症状がないだけで何かが進行してるかもしれない。考え出せばキリがない。

今は原因不明の痛みと違和感があるから特に落ち着かないし頭から離れない。それがストレスになって余計負担をかけてる気がする。歳をとるにつれて、死ぬことが切実さとリアルさを持ってしまった。


結婚して、死ねなくなってしまったことも良いのか悪いのかわからない。いざとなれば死ねる、というのは1つの救いだったのにそれが失われてしまった。むしろプレッシャーになってる。

死という退路を絶たれて、それなのに現実的な形として死の恐怖が付き纏って、結果的に死にたくなって、何とも上手くいかないなと思う。楽になりたい。

式日

友人に薦められて観た映画。

庵野秀明が監督、岩井俊二が主演、Coccoが主題歌と、俺が好きな要素がいっぱいでこれは見るしかないなと。

で、見た感想としては「これはキツい…」でした。

いや、全体の淡々としていてちょっと陰のある空気感とか、廃墟ビルと風景とか、音楽のトーンは紛れもなく岩井俊二の影響があるなと思うし、黒字に白の太フォントで日付と英訳を出す演出とかナレーションが林原めぐみだったりするところはエヴァファンとしてはニヤっとするところなのだけど、紛う事なき厨二病要素をああも濃密に叩きつけられると胃もたれするというか。

毒親に育てられて心を病んでしまい現実から逃げるエキセントリックな少女と、思うような仕事ができず疲れ果てて故郷に帰ってきた映画監督の男、って設定もこれだけ見ると好きなんだけどね。

ちょっと共感するには歳をとりすぎたのかもしれない。

毎日屋上の淵スレスレに立って、まだ飛び降りられないから生きてていいと確認する「儀式」とか、まだ客観的に自分の痛々しさを認識していない純粋無垢なサブカルクソ厨二病なら自分も同じことしたいと思うかも。

自分の厨二病的な痛々しさを認識しながら卒業しきれてもいない、中途半端な大人になってしまったんだなぁ…と思ってしまうな。

 

内容というかメッセージとしてはとっても庵野でした。エヴァのときも、オタクに対して虚構に逃げるな、現実を見ろ、ってことを言っていたけれど、この映画でも「映像特にアニメーションは個人や集団の妄想の具現化」とか「虚構の構築で綴られている」なんていう主人公の独白部分があったし。この主人公の監督は虚構を作ることに疲れながらも最後まで監督としての仕事はしているし、少女も自分の虚構の世界を壊して親=現実と向き合うストーリーなので言いたいことは変わらないなと。

あと、少女の身につけてるものや持ち物が一貫して赤だったり、廃工場の広いスペースに置いてあるバスタブに横たわるシーンがあったり、ところどころエヴァファンとしてはアスカをイメージする部分が。親の愛を得たくて藻掻いているのもそうだし。あれは意識してやってるんだろうなー。

アート作品を撮ろうとして、しかもアニメは虚構だとかオタクに現実に変えれとか言いつつもエヴァを想起させる演出を入れるのは狡くない?って気もする。

 

主役の少女は原作者だそうなのだけど、エキセントリックなキャラが似合っていて表情とか動きとかが魅力的。お家案内ツアーの秘密の4階からスタートするところとか、最後の方の壊れかけてる感じとか。

映像もめっちゃ綺麗だし、ワンシーンワンシーンが写真集になりそうで。

映像と音楽に関しては手放しで好きだと言えちゃう作品でした。

冷めたスープ

今年は多分人生で一番ライブに行った年になる。

今まで2桁行った年なんてなかったし、来年以降もそんなにたくさんは行けないだろうから。

yazzmadもいなくなっちゃうしね。今度から何を目当てにライブ行こう。

Femme Fataleとかメガマソとか聖さんとかそのへんが複数被ったらかな。

基本的に対バンイベントって8割くらいが好きなバンド、気になるバンドじゃないとあまり行く気が起きない。

出る数にもよるけど、大体1バンド30分くらいでしょ?

それのバンドだけ見るために行くとすると、30分のために4000円とかかかっちゃう。

時間単位で8000円よ。それってすごくない?

TDLなら1DAYパスポートが約7000円。一日遊べちゃう金額を1時間で消費しちゃう(別にディズニー好きでも何でもないけど)。

映画も高い高いと思うけど2時間で1800円とかだしさ。

そう考えるとライブって贅沢な娯楽だよね。チェキとかグッズとか買うこと考えたらなおさら。

お金の問題じゃないのはわかってはいるけど、他の何物に代え難い体験なのもわかってはいるけど。

逆に言えばお金をそのくらいつぎ込んでも惜しくない、って思えるくらいのめりこめてないってことでもあるのでそれは悔しいかなぁ。

性格上そのくらい夢中になることは間違いなく一生ないってわかってるからこそ、そんな気持ちを味わってみたい。

 

夢中になる、ってこととは無縁に生きてきた気がする。

何やっても長続きしないし、これをやってる間は時間を忘れてしまうみたいなものもないし。前にも書いたけどライブ中も仕事のこと考えてたりするし。

 

そしてお金を注ぎ込むものがない割にお金が貯まらないのは何故…

雑記

 別に毎日更新しようと意気込んでるわけでも、義務感があるわけでもないのだけど、フワフワと頭の中に浮かんでくる、すぐに消えてしまいそうなアレコレを繋いでおくための雑記。

 

 「前髪が決まらないとやる気が出ない」っていうmixiのコミュニティに入っていた。今もネタ的に前髪死亡とかうねりんとか色々言ってるけど、昔は結構本気でその日一日のテンションが左右されてた笑

 見た目に対する拘りが薄れてきたのはいつぐらいからだろう。多分最大20キロ近く太ったのと無関係ではないと思うんだけど。社会人になりたての頃だって髪セットしないで行くの嫌だったもん。今じゃ寝癖だけ直してもっさり眼鏡でも全然平気。そういうタイプになりたくなかったけど。なったらなったで気楽だし昔は自意識過剰だったよなーなんて思ってしまうから人は変わるもの。

 自意識ってのは自分にとって大きなテーマで、「人からどう思われるだろう」「自分を良く見せたい」っていう思いが、見た目の問題に限らず常に悪い方向に表出してる。卑屈と言われるのも自意識の裏返しだからな。多分それは態度にも出ていて、知らないうちに周りにも気を使わせてしまっていると思うし壁を作る原因にもなってると思う。「コミュ障」って一言でまとめてしまってるけどその内訳は色々あると思うのよ。俺にとっての最大の原因はこの自意識関係なんじゃないかとすら思う。だからといって中々治るものでもないんだけどさ。

 

 ここ数日仕事がらみで気が滅入っている。音楽でも聴いて気を紛らわそうと思って色々流してはみるけど、そういう時は大抵何を聞いても自分の内側には入ってこないし感覚的にはまさにバックグラウンドミュージックでしかない。それもそのはずで音楽は現状を変えてくれないし。精神を刻一刻と蝕んでいく現実に何の影響も与えない。よくバンドマンが「嫌なことは全部忘れてここでは全力で楽しめ!」とか「僕たちの音楽が常に寄り添ってる」とか言うじゃん。本当に滅入ってるときってそれどころじゃないんだよね。うわの空になっちゃってるから。気持ちの切り替えが下手なだけなんだろうけど、こういう人ってライブの楽しさを100パーセント享受できないしなんか損した気分になるよね。なんか話が逸れたけど素直に音楽に癒されたり活力に変えられる人間だったらいいのになって思った。

 

捨てるということ

最近あまりにも散らかってるので重い腰を上げて片付けをしようとしたけれど、どうしても本や服が容量オーバーになってしまうので少し捨てることにした。 

服なんて特に数年で好みが変わったりサイズが合わなくなったりで着ないものが多くそれだけでダンボール2つくらいになりそう。 

しかし、基本的に物が捨てられないタイプの人間。
別にもったいない精神とか、エコがどうとかではなく思い入れの問題で。
思い入れというほど特別なイベントのときに着た服ではなくても、「これは上京したばっかりのときによくわからず下北で買ったんだったなー」とか、「これ着てた頃は~に住んでて~でよくご飯食べて・・・」とかそんなレベルのことで捨てるのを躊躇ってしまったり。
物を捨てる、っていうことが、自分の歴史をそのまま捨ててしまうようでちょっと不安。
もちろんそんなことはなく、物は物だってのは頭じゃわかっていても。
無くなって困ることも無いのに。 

自分でもなんでこんな考えになるのか不思議。
過去を思い出す方法なんて他にもあるし、さらに言えば特別思い出したいわけでもない、無くなっても構わないくらいの過去のほうが断然多いのだけど。

そんなことを考えながら新しく増えてきた服を整理しかけたままになってしまっている。
新しい服があるということは、それもまたリアルタイムの歴史の積み重ねであって近過去であるそちらを優先してやらなきゃいけないんだよなぁ。

関係ないけど物には魂が宿るなんて昔からよく言うけども、捨てたらその魂はどこに行くのか小さいころ考えてたことがあった。
そして今は部屋の物には思い出とかそういうものが宿ってる気がするのだけど、焼却されたらちゃんと成仏してくれるのかしら。
変な話だけど、思い入れが強い場所とか長く居た場所にはその時のままの自分の亡霊みたいなものが残ってる気がするんですよ。
例えば上京したての頃に住んでた街には、今も20歳前の自分が当時付き合っていた相手と幸せそうにしてるんじゃないかとか。
別の場所では思いつめて当てもなくフラフラ夜中に彷徨う自分がいるんじゃないかとか。
そしたら何年も居た大学のキャンパスなんかすごいことになってそう。

色んな物や場所に自分を結びつける傾向が強いからだめなんだろうな。
切り捨てられる人ってよっぽど合理的で強いんだろうな。
とは言え引越しの前には少しずつ捨てないといけないね、いつまでもこうしてられないから。